河鍋暁斎記念美術館
かわなべきょうさい きねんびじゅつかん
当館は、幕末から明治前半にかけて活躍した日本画家・河鍋暁斎(かわなべきょうさい、1831~1889)とその一門を顕彰するために、暁斎の曾孫(河鍋楠美)が創設しました。
暁斎は、幕末に今の茨城県古河市に生まれ、1歳で家族とともに江戸へ出て、明治22年に亡くなるまで江戸・東京で生涯を過ごしました。2歳で蛙を写生するほど絵が好きだった暁斎は、6歳で浮世絵師・国芳に入門し、2年後には狩野派に移って修業し続け、18歳という若さで「洞郁陳之」の号を頂いて卒業しました。その後、幕末から明治初めにかけて、「狂斎」の号で風俗画や戯画を描いて特に庶民の人気を得ましたが、明治3年にある書画会(有名書家や画家を招き、その場で揮毫即売した会)で明治政府の高官をからかう絵を描いたとして捕えられ、翌年、放免後に画号を「暁斎(きょうさい)」と改めたのです。
暁斎は改号後も、書画会に参加したり錦絵を出したり教科書から滑稽本まで様々な本に挿絵を描くなど活躍し、明治14年の第二回内国勧業博覧会では「枯木寒鴉図」で日本画の最高賞である妙技二等賞牌を受賞しました。さらに、鹿鳴館を建てたジョサイア・コンドルが入門したように、暁斎は当時来日した多くの欧米人とも交流し、海外にも広く知られています。こうして暁斎は、政界から欧米人、そして庶民まで広く人気を得て晩年まで高く評価され300もの注文が残る中、明治22年4月26日、58歳で現在の豆富料理「笹乃雪」の近く(根岸2丁目)で亡くなったのです。
明治元年に生まれた暁斎の長女・暁翠(きょうすい)は、父の手ほどきを受けて日本画家となり、父亡き後、30代で草創期の女子美術学校(現・女子美術大学)で教え、結婚後も良家の子女に教えながら、彩色に優れた美人画から能狂言画、風景画、滑稽画まで幅広く描く日本画家として活動し、昭和10年に父が没した場所で亡くなりました。
その後、河鍋家(暁翠の娘一家)は谷中から赤羽へ移り、さらに昭和19年には強制疎開でこの蕨市(当時、蕨町)へ引っ越し、昭和52年に自宅に当館を創設し、昭和61年に財団法人の認定を受け、平成24年に公益財団法人へ移行したのです。河鍋家には、暁斎・暁翠をはじめとする一門の下絵や画稿類3000点が遺されており、開館後も肉筆画や版画等を収集し続けています。当館ではそれらの作品を2か月毎にテーマを変えて展示するほか、日曜美術講座(隔月)や研究発表会等を開催し、独自の出版物やグッズ類を製作・販売しています。
基本情報
- 名前
- 河鍋暁斎記念美術館
- ジャンル
- その他
- エリア
- 南町
- 住所
- 埼玉県蕨市南町4-36-4
- 電話番号
- 048-441-9780
- 営業時間
- 10:00~16:00
(16:00まで入館可)
- 休業日
- 毎週木曜日
毎月26日~末日(展示替え期間につき)
年末年始
- お店のHP
- http://kyosai-museum.jp/
サービス内容
商品
- 名前
- 河鍋暁斎記念美術館
- 住所
- 〒335-0003 埼玉県蕨市南町4-36-4
- 電話番号
- 048-441-9780